エンタティメント紹介ブログ
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
有川浩の所属すべき出版社はどこなのか!?
まず、有川浩の出している作品と出版社を並べる
・自衛隊三部作
『塩の街』(電撃文庫、ハードカバー・メディアワークス)
『海の底』(ハードカバー・メディアワークス)
『空の中』(ハードカバー・メディアワークス)
・図書館戦争
『図書館戦争』(ハードカバー・メディアワークス)
『図書館内乱』(ハードカバー・メディアワークス)
『図書館危機』(ハードカバー・メディアワークス)
『図書館革命』(ハードカバー・メディアワークス)
・ノンシリーズ
『クジラの彼』(ハードカバー・角川書店)
『レインツリーの国』(ハードカバー・新潮社)
『阪急電車』(ハードカバー・幻冬舎)
シリーズものはメディアワークスから出ていて、ノンシリーズはバラバラ。明確にライトノベルと呼べるものは『塩の街』の文庫版しかない。同世代の作家に比べて文庫作品があまりないのも特徴。メディアワークスが『図書館戦争』をどこで文庫落ちさせるかが今後のキーになるだろう。有力なのは電撃文庫に落とすか、角川文庫に落とすかのどちらか。電撃文庫には『タイム・リープ』という前例があり、角川文庫にもライトノベル作品の一般書籍化が多く存在している。
有川浩の作品はライトノベルか
有川作品をよく出すと言われるのが「ライトノベルなのかそうじゃないのか」である。販売形態で見れば有川浩は純粋なライトノベルなんか一冊も出していない。ただし、自衛隊三部作や図書館戦争は内容的な面ではライトノベルといえる。どちらの作品にも直接的な擬音描写などの「ライトノベル文法」は存在しているし、図書館戦争にはかなりアッパーな(かつ小説の範囲を出ない)表現が多くある。図書館戦争を一般書籍と答える人は多いし、事実書店にも単行本コーナーに並んでいる。だからといって図書館戦争や塩の街をやすやすと一般文芸扱いしてもいいのだろうか。
大人にもライトノベルを分ける
どこぞかのインタビューで有川浩は「大人にもライトノベルを分けてくれよ、というところから執筆が始まっている」というようなことを言っていた。本人はライトノベルを肯定し、ライトノベルとして全作品を書いていることが読み取れる。ここまでライトノベルを許容する作家は少ないんじゃないのか。桜庭一樹だってライトノベルを「アンダーグラウンド的存在」として許容しているけれど、この人に比べたらまだまだ、といった感じ。それにしても、「大人にもライトノベルを分ける」。これが案外難しいのかもしれない。
大人に捧げるライトノベルの系譜
大人にも分ける、ということはもちろんライトノベルとして一般書籍を出してはいけない。だから橋本紡も乙一も誼阿古も除外される。彼らは分けてなんかいない。それでは一般書籍としてライトノベルを出すことが「分ける」ことか。まだまだ足りないような気がする。一般書籍化を前提としているような『エンドロールまであと、』みたいな作品を振るいにかけなくてはいけない。どこまで「生もののライトノベル」を読み手が許容できるか、それが「分ける」ことではないのか。『十二国記』なんかがそうで、あれはライトノベルの文法と世界観で一般書籍として出している。
今越境が活発で、ライトノベルが分けられるのは、読み手がガチガチな文章を拒否し、生ものを平然と食べられる感性を持っているからだと思う。
・自衛隊三部作
『塩の街』(電撃文庫、ハードカバー・メディアワークス)
『海の底』(ハードカバー・メディアワークス)
『空の中』(ハードカバー・メディアワークス)
・図書館戦争
『図書館戦争』(ハードカバー・メディアワークス)
『図書館内乱』(ハードカバー・メディアワークス)
『図書館危機』(ハードカバー・メディアワークス)
『図書館革命』(ハードカバー・メディアワークス)
・ノンシリーズ
『クジラの彼』(ハードカバー・角川書店)
『レインツリーの国』(ハードカバー・新潮社)
『阪急電車』(ハードカバー・幻冬舎)
シリーズものはメディアワークスから出ていて、ノンシリーズはバラバラ。明確にライトノベルと呼べるものは『塩の街』の文庫版しかない。同世代の作家に比べて文庫作品があまりないのも特徴。メディアワークスが『図書館戦争』をどこで文庫落ちさせるかが今後のキーになるだろう。有力なのは電撃文庫に落とすか、角川文庫に落とすかのどちらか。電撃文庫には『タイム・リープ』という前例があり、角川文庫にもライトノベル作品の一般書籍化が多く存在している。
有川浩の作品はライトノベルか
有川作品をよく出すと言われるのが「ライトノベルなのかそうじゃないのか」である。販売形態で見れば有川浩は純粋なライトノベルなんか一冊も出していない。ただし、自衛隊三部作や図書館戦争は内容的な面ではライトノベルといえる。どちらの作品にも直接的な擬音描写などの「ライトノベル文法」は存在しているし、図書館戦争にはかなりアッパーな(かつ小説の範囲を出ない)表現が多くある。図書館戦争を一般書籍と答える人は多いし、事実書店にも単行本コーナーに並んでいる。だからといって図書館戦争や塩の街をやすやすと一般文芸扱いしてもいいのだろうか。
大人にもライトノベルを分ける
どこぞかのインタビューで有川浩は「大人にもライトノベルを分けてくれよ、というところから執筆が始まっている」というようなことを言っていた。本人はライトノベルを肯定し、ライトノベルとして全作品を書いていることが読み取れる。ここまでライトノベルを許容する作家は少ないんじゃないのか。桜庭一樹だってライトノベルを「アンダーグラウンド的存在」として許容しているけれど、この人に比べたらまだまだ、といった感じ。それにしても、「大人にもライトノベルを分ける」。これが案外難しいのかもしれない。
大人に捧げるライトノベルの系譜
大人にも分ける、ということはもちろんライトノベルとして一般書籍を出してはいけない。だから橋本紡も乙一も誼阿古も除外される。彼らは分けてなんかいない。それでは一般書籍としてライトノベルを出すことが「分ける」ことか。まだまだ足りないような気がする。一般書籍化を前提としているような『エンドロールまであと、』みたいな作品を振るいにかけなくてはいけない。どこまで「生もののライトノベル」を読み手が許容できるか、それが「分ける」ことではないのか。『十二国記』なんかがそうで、あれはライトノベルの文法と世界観で一般書籍として出している。
今越境が活発で、ライトノベルが分けられるのは、読み手がガチガチな文章を拒否し、生ものを平然と食べられる感性を持っているからだと思う。
PR
COMMENT